1980年代、こけし資料館(後の津軽こけし館)建設運動/こけし蒐集の旅:右から2番目 盛秀太郎工人の息子、盛真一工人)
ワゲモノって何歳までなのか…。
10代、20代、30代。そう考えた時40歳を間近に控えて、間もなくワゲモノではなくなってしまうような感じがして。
そして、今から約15年前、津軽新報に掲載されていたリレー随想「おとこの放課後」というコーナーである人から時折ワゲモノと評され、それを見て20代から30代を津軽こけし館で全力で駆け抜けて来たこともあり、その後の現在を伝えたく今回書かせてもらうことにした。
1980年代、こけし資料館(後の津軽こけし館)建設運動/こけし蒐集の旅:小椋久太郎工人宅にて。(右端小椋久太郎工人/右から2番目佐藤善二工人)
―2008年11月、右も左も…前も後ろも…実はナナメまでもわからないワゲモノが津軽こけし館に沢山の荷物を運んでやってきた。
荷物はそれまで仕事で使っていた自分なりの虎の巻資料。
覚えてきたモノ全てを持ってきたつもりだ。
生まれも育ちも青森県黒石市。
当時24歳、大学を卒業して会社に入社後、2年半の間、隣接する観光施設、津軽伝承工芸館の営業担当を行っていたが人事異動で津軽こけし館に仕事の場を変えた時期であり、長年、津軽こけし館の目玉として展示されていた純金こけしが売却された1年後でもあった。
ふるさと創生1億円事業を利用して製作した1億円の純金こけしと純銀こけし。
1988年にオープンした津軽こけし館。翌年、黒石市民から応募したアイデアを元に作られ1993年には、金銀繋がりで当時国民的スターだった“きんさん”“銀さん”もこけし館を訪れ、大勢のお客さんが見に来たそうだ。
※1993年8月 きんさん、ぎんさん来館。純金/純銀こけしと一緒に記念撮影
だが、時代と共に徐々に話題性は薄れ、2007年、市が財政難だったため売却案が本格化。
1口1万円でオーナーを探し、1万5000人分、約1億5000万円を全国から集めて市から買取り、永久的に津軽こけし館に展示するという企画も計画実行したが、約8000口の予約で断念。
長らく活躍した名物こけしも無くなってしまい、無くなった後の津軽こけし館は入場者数がそれまでの3分の1と激減した。
※2007年12月売却された1億円の純金こけし/売却決定前に行った3か月のオーナー募集活動は15000口を目標にしたが約半数の8137口(8137万)の予約申し込みで断念。
オーナー募集活動時、営業職だったこともあり募集活動を手伝った。
売却決定後、反省会を兼ねた懇親会にご褒美代わりにご馳走するので参加するように言われた。
参加者は地元の商工観光関係の重鎮や地元の有力企業の社長など。正直23歳の自分には重圧がかかる場違いな場所でもあった。
その時聞いた、実行委員長でもあった自分が勤める会社の社長(現会長)が言った言葉がずっと心に残っている。
「今、純金こけしを売ってしまうのでは無く、次の世代のワゲモノたちに将来純金こけしをどうするか決定権を残してあげたかった。」
そうか、この活動は自分たち若者のためだったんだ。
その言葉を聞いた時、胸に突き刺さったものがあった事を今でも覚えている。
つづく。
※ワゲモノ(津軽弁で“若者”)
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~あとがき~
みなさまこんばんは!
先日のブログで少し書いた通り、地元の地方紙にヤマダが書いたエッセイが10回に分けて掲載されることになりました!
ブログを見てくれている人、新聞読まない人でも見れるように。。。
昔、東京こけし友の会の会報誌の記事向けに書いたものを半分位リメイクして地元新聞掲載用に書き足したり変更したりした“現在”バージョンなのですが今回のようにブログでも見れるように掲載記事内容アップしたいなと思ってます!
自分的には応援してくれたこけしファンの皆様にお礼の気持ち。。。
ヤマダに影響を与えたレジェンドの方々や頑張って支えてくれた方々への恩返しの気持ち。。。
そして、一度たくさんの方が見てくれる中でお礼と感謝とそれらがあったから「今」があるとありがとうの気持ちをしっかりと伝えつつ、
伝えた事を区切りとして、自分的な次のステップに進みたいな。と思い書かせてもらいました!!
津軽こけし館、ワゲモノの放課後。
先週位から1週おきに地元紙の方では掲載されてますが、ブログの方でも遅れてたまに掲載するのでどうぞよろしくお願い致しますー!