“1人3役、3割カット”を方針に、自分が入社した年から会社では津軽伝承工芸館・こけし館の管理運営することになった。
自分が一番社員では若かったが、社員の平均が32歳と若いメンバー。
責任ある仕事をしてもらうためと22歳で入社したばかりの自分は係長を与えられ、社員全員が課長や部長などの役職を与えられた。
係長だけど、部下はもちろんおらず、当たり前だが一番下っ端だった(笑)
そして仕事内容。
時にはスーツを着て営業活動、時には電話での食事や体験の予約対応、時にはパソコンでデータ入力。
スコップを持って雪だるま作り、焼き鳥を売るためにシャモロックを25gに切り分けて焼き鳥串にひたすら刺す等々。
ある時、鉄製スコップと栓抜きを社長からプレゼントされ、「???」と思っていたら、「ギターやってたべから、オメだば出来るびょん!後ろついてこい(笑)」と、チンドン屋に扮した社長の後ろをスコップと栓抜きを持ってカンカンカンっ!とスコップ三味線をやって後をついて回った事もあった。
日本一達成後も黒石市内4万人、1人で1つ雪だるまを作って雪だるまを町の目玉にしようと活動を続け、入社した頃、冬の時期になると職員みんなで雪だるまをひたすら作った。冬場だけ自衛隊(雪国地方では鍛え上げた自衛隊の方がお祭り等の雪像づくりに協力している)になった気分だった・・・(汗)そんな社長は沢山の街おこし活動も手掛けており、黒石市民であれば作った記憶がある人多いのではないかと思うが、市民1人1個で4万個の雪だるまを作る“津軽くろいし日本一の雪だるま”の仕掛け人で、今は黒石のご当地B級グルメとして定着した黒石焼きそば、つゆ焼きそばも言い出しっぺは社長で盛り上がりが始まったものだと自分は思っている。
やってみたいと思っていた街おこし。“1人3役”という事で、色々な経験をさせてもらいながら、「とにかくやってみる」「すぐに行動する」「お金を掛けずにあるものを活かす」いろんな事を教わった。
なぜ、色々なアイデアや企画が思い浮かび、それを実行できるのか。そう思って盗んだものもある。
津軽弁丸出しで誰にでも気さく、笑顔でニグニグと接する社長。知り合いや仲間の人が多くおり、何かやるとなったら、応援してくれる人、知恵やアイデアを提供してくれる人、自分の持っている技能や芸で協力してくれる人が沢山いた。そして何より自分が先頭になり汗水かいて仕事をしていた。
入社した頃、高圧洗浄機で足湯の清掃なんかも週2位でやっていた。毎日やる事一杯でクタクタになるけど、充実していた日々。
入社してから数か月後のある日、社長が執筆していた津軽新報の“おとこの放課後”コーナーに「4月には右も左もわがらなかったワゲモノが、スーツ姿も様になりイベントのチラシを持ってセールスに行った」と面白おかしい表現で書かれていた。
これは自分だ。。。
青森県のローカルタレント、伊奈かっぺいさんのトークイベント&ガニ(蟹)を食べる会(笑)
奇抜なアイデアとちょっと田舎臭いけど失笑してしまうような面白いイベントや企画を社長はいつも企画して実行していた。
そして、右も左もだけじゃなく、前も後ろもわからなかったと伝えたいと思いながら、時折自分を含めた若いスタッフに新聞を通じてエールを送ってくれた事、自分はとっても嬉しくて、頑張る糧になった事今でも覚えている。
つづく
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~あとがき~
2016年北海道ナマラこけし2。北海道旭川から車で北に40分鷹栖町で開催。毎年参加していたけど去年、今年とコロナで中止。来年はまた行きたいなぁ・・・・。
2016年、“ココは結構知っている人”のようなエスコートぶりで山谷レイ工人を引き連れ、まさかこけし館担当として此処にまた来るとは思わなかったなぁ・・と岩見沢、滝川の駅の看板を見て、あの時、不安と重圧の中動き回っていたなぁ、そして、名寄出身の小島さんは旭川のさらに上からやってきたんだなぁ・・・と駅弁を食べながら考える男が一人。
ナマラこけしというこけしイベントに参加するために8年ぶりに旭川に向かう列車に乗っていた。
元々会社全体の営業担当。
何の営業担当かというと・・・なんでもだった(笑)
営業時代、津軽こけし館にも用事や連絡等で頻繁に来ていただけど、津軽こけし館に配属になる前の拠点は隣接する津軽伝承工芸館だった。
時には宴会や懇親会、大きな会議などの貸会場の営業や打ち合わせ。
伝承工芸館で行うイベントのチラシやポスター掲示のお願い。
ディナーショーのチケット販売。
首都圏や都市部の旅行会社やバス会社へ団体昼食やバスツアーの営業。
北海道からの修学旅行生向けにこけしの絵付体験や津軽塗体験の営業。
最初数回は、上司だった営業部長と一緒に回ることがあったが、人手も少ないため数か月後には一人で営業に回ることが多くなった。
中でも思い出に残っているのが確か23歳の12月頃に行った北海道の旅行会社への営業。
4泊5日のスケジュール。
4日目から上司が北海道に来て札幌で合流する事になっていたけど、1日~3日目、函館、苫小牧、帯広、滝川、岩見沢、旭川と1人で回るコース。ハードスケジュール。。。よく行っていたなぁと今でも思う。
そして何よりホームとアウェイという言葉があるけれども。
同じ職場で働いている人達で、ホームでお客さんを受け入れるのも大変だけど、自分は敵地アウェイに乗り込んでいかなきゃいけない時も数多くあり、環境やスタッフが整っている状態で受け身で立ち向かうのではなく、敵地に乗り込んでいく武器は少しの手荷物以外は自分の知識や経験、そしてバカみたく明るく心掛けるのとトーク力。
会社の内部的な役職であればそれほど気が重くなかったかもしれないが、自分は営業。
外部にひたすら名刺を渡しまくって、係長級が来たのであればと受付の女の子から名刺を渡され出てくる人は貫禄がある課長や部長、支店長級ばかりだった(汗)
大きな企業の宴会や会議になると親やじいちゃん世代の方々と打ち合わせ。
地元の小学校、中学校に遠足や体験学習の営業は職員室に行き、大抵の場合教頭先生に名刺を渡して案内。
入口から見ると自分の固い関節だと見上げてもてっぺんが見えない、摩天楼のような大手旅行会社のビルに乗り込む時は緊張とプレッシャーで息を何度も整えた。
今でも保管している当時営業担当だった時に売り込んでたイベントのチラシ。中でも宴会プランやイベント公演などの「チケットを売る」「予約を取る」って事が凄く大変だった。
責任を与えるためとくれた係長。モロに僕は責任を請け負った。何より宣伝するのが仕事じゃなくそれは過程で、頑張っただけではダメな「結果」を出すのが仕事という重圧がかかること仕事だった。
営業担当をしていたおかげで、敵地に乗り込んで会話する時は助けが誰もいなく、そういった時に困らないためには、自分で調べて覚えなければいけなかった。県外に出張に行くときには、営業の基礎的な本を読みながら、少しでも会話を広げるために、現地の特徴を調べておいたり、時事問題等も調べ、「できる!いける!!やれる!!!」と自分みたいな人が買う本だったのかと、初めて自己啓発の本などを買ってを読んだりしていた(笑)
自慢じゃないがほぼ漫画本しか読んだ事が無かった10代…(笑)
そして、外部に行った後改めてわかる、お土産に抱えて来た覚えなきゃいけない事は他にもあった。
施設や自分の会社の事を何でも知ってなきゃ答えれない。
外部の人達に聞かれた事や要望に応えるためには、自分たちの会社の料理や料理人の技術、会場やサービス提供する人、体験受け入れする職人さん、施設全般の事。どんな手順でどんな準備をして、何が出来て何が出来ないか、貸し出せる機材やテーブル、机など何があって何がないか、料理メニューはどんなものが出来るのか。この職人さんは何が良くて何がダメなのか。 原価や売値。などなど全部ある程度知っている必要があった。
営業に乗り込んだ時は一人での戦い。助けがないから自分で覚えなきゃいけない。それが一番だったけど、本当に色々な人に助けてもらい、色々な事を教えてもらった。
こちらも今でも保管していた旅行会社へ持っていっていた資料
旅行会社に勤めていた事があり、旅行会社や団体バスツアーの仕組みについて詳しく、観光業界のアレコレを教えてもらった営業部長。
営業全般を教えてくれたり、事務処理だったり、フライヤー等を作るパソコン技術、予約の電話対応や旅行会社やお客さんとの連絡。現場であるホールやサービススタッフ、厨房、職人さんへの手配方法、イベントなどの企画や打ち合わせなどにも立ち会わせてくれて、色々な事を教えてもらった。
伝承工芸館のメインホール。宴会、会議、イベント、結婚式など使用方法は多岐にわたっていた。
ホール/サービス担当の部長。
違う部署だったけど一番関連性がある部署で、会場について、サービス、施設全般について教えてもらった。
そして、仲間や知り合いが多い人で、営業で行き詰っていた自分に沢山の人を紹介してくれた。
料理長と打ち合わせてお客さん用に渡していた大きな企業の懇親会のメニューの一部。
そして、兄貴分だった3人の部長の最後の1人。営業部長とホール担当の部長は今でも一緒に働いているが、訳があって数年前に退職しちゃった料理部長。こけし館担当になってからも、退職した後にたまに会った時も「タクローが営業だったころが自分は一番作り甲斐があって良かった(笑)」ずっとそんな風に言ってくれている。
「料理長!この団体の宴会、予算2500円で何とか形になるようにやって下さい💦」「子供も多い団体だからチョコレートフォンデュとかやって欲しい!」「中華メニュー中心に食べたいって言われて、出来るか出来ないかわからないけど空気的に出来ます!って言っちゃったので今から作る練習して下さい(汗)」
ある意味、こちらも直接お客さんと話す立場で必死に売り込み押すわけだから、コレも出来ない、アレも出来ないじゃお客さんは掴めない訳だけど、実際にモノを作る人も大変な訳で・・・。だけど、本人の性格もあったかもしれないけど、「自分は自分からやるより、こうして欲しいって言ってくれた方が性にあっている(笑)」と言っていつも支えてくれた。そして、昼ごはんに「料理長!お任せ賄いご飯下さい!」っていうと、「オッケー(笑)」と言っていつもスペシャルメニューで大盛にしてくれた。
同世代のスタッフもいた。一緒にひたすら汗をかいて仕事をして、仕事終わりに皆でラーメンを食べにいって、ああでもない、こうでも無いと仕事の話をして。。。キツい仕事も同年代のスタッフの人達がいたから頑張れた。
だけど一緒に仕事をしている中で「キツイな~」「明日のあの準備もあるな~」と話しになると、「ですね~」と言いつつ、自分は何処かしら自分が窓口になって進めている仕事の事も多く、何処かしら皆にやらせている感じがして申し訳ないという気持ちもあり、部署は違えど自分と関係があると思い日中の仕事が終わった後、準備がある時は毎日のように現場も手伝った。
そして社長。
土日は企業や学校が休みで営業に行けない事が多いので、伝承工芸館の軽食コーナーをやるようにある時に指令が出た。かき氷をひたすら作り、ソフトクリームも上手に作れるように。ある時、県産地鶏シャモロックを売り出すように焼き鳥屋台をやれと言われて、金曜日の夕方になると、サロンを巻いて厨房に行きシャモロックとネギを切り、焼き鳥の仕込みをして土日は「へい、らっしゃい!」と焼き鳥屋に変身。
当時土日限定で手伝っていた軽食コーナー。
黒石やきそば、つゆ焼きそば。
ご当地B級グルメとして定着した理由は社長だと思っている理由の一つでもあるが、ある時社長が黒石焼きそばについて、ある人と盛りあがって話している時があり、「よし!市内の焼きそば店舗に案内して、当日焼きそばを回収して来て販売しろ。黒石焼きそばサミットだ♪」と指示されたのは自分で、当日集めた焼きそばを並べて陳列した所、100食近くの焼きそばが開始10分程度で売れ切れになったのを覚えているからだ。
今ではご当地B級グルメとして定着した黒石つゆ焼きそば 伝承工芸館version 話しが変わるけど、コロナ禍になる前は毎年鳴子のこけし祭りにテント出店していた津軽こけし館&ヤマダ。実は10年くらい前に初めて出店した際はこけしやお菓子をメインで売っていたわけではなく、黒石焼きそば&つゆ焼きそばを現地で作って販売しておりました(笑)
「夏休みだし、子供たち集めた合宿でもやってみよう!タクロー!講師の人頼んだから当日助手について、講師の人を手伝ってやれ♪」と指示を受けた入社して3か月目。
アウトドアとか自然体験の専門の講師の方で、助手的な立場で手伝っただけだけど子供たちが楽しんでくれたことが嬉しく、およそ半年後、また講師の人を呼んでやったらどうでしょうと提案した時、自分は1人3役の方針を忘れていた。
チビッ子わくわく冒険キャンプという子供たち向けの宿泊イベント
「講師の人呼ぶのもいいけど、お前自分でやってみろ(笑)」
と企画からチラシ製作、募集、当日の進行やスケジュール作り、手伝いするメンバー、協力してくれる人の手配やら全て自分でやる事に。
このチビッ子わくわく冒険キャンプというイベント。自分的には思い入れが深く、夏休みと冬休みに開催して結構な人気イベントに定着してこけし館担当になった初期の頃までやり続けて10回以上開催した。
チビッ子わくわく冒険キャンプ。多い時は40名位の子たちが集まった。
奥の方の黒Tシャツが若いころの自分。マイクを持っているのがの開校式で挨拶をしてくれた社長。
そんな社長。
今では全国的に有名になったランプの宿青荷温泉を一躍全国区に広めた人物で、高さ日本一の大きさの雪だるま製作を達成した人物。
自分はその人間味がある人柄と、厳しくもあり、優しくもあり、突拍子の無いアイデアを仲間や人をうまく巻き込んでやり遂げちゃう人で、自分的には豊臣秀吉?坂本竜馬?みたいに思える人で尊敬していた。
今書いていると、自分は営業担当だったのか・・・?
と自分でも思えるほど何でも屋。
社長が「タクロー、すぐやる課って知ってるか?(笑)」と何度も言ってきた事があったけど、社長は絶対すぐやる課の山田拓郎だと思っていたに違いない。
そういった環境は大変だったけど、自分達の会社のこと、全部に少しづつ関与している仕事というか、全部を知らなきゃいけない仕事をやらせてもらっていたので、大変で苦しいと思えた事の回数の方が圧倒的に多かったけど、色んな事をやらせてもらっている分嬉しい事も経験も人一倍味わえたと思う。
チビッ子キャンプの記念写真。 当時参加していた子たちはもう20歳近く。数年前に伝承工芸館で行った成人式の会場に顔を出した時、大人になりすぎて最初はわからなかったけど声を掛けてくれた子も♪
そして、入社して2年目位。
やっと係長という肩書に慣れてきた時期と、ある程度の事は聞かれれば知っており、現場の人達との連携や出来る事/出来ない事の共通認識も出来て来て、ちょっと気持ちに余裕が生まれてきた時、日本一達成した社長に見透かされていたのか、嬉しくもあり、さらにキツいだろうな・・・とも思いつつ、次のステージである課長を与えられた (笑)
懐かしい20代前半。
密度が濃すぎて、本編よりあとがきが長くなってしまった・・・(笑)