津軽こけし館、ワゲモノの放課後④「ワゲモノの意地」



~あとがき~

2007年、自分が入社して1年と少し。
そんな黒石市は財政難のため、ふるさと創生1億円事業で製作し、津軽こけし館に展示していた1億円の純金と純銀のこけしの売却を検討。
それに対して津軽こけし館の5代目館長も兼務していた社長が事務局長となり、純金こけしオーナーズクラブ実行委員会という会を立ち上げた。
営業職だった頃の自分は何をした記憶があるかというと、市内を中心にオーナーの募集チラシの配布活動。
黒石よされや黒石ねぶた等のイベントで、初代こけシケ子ちゃん的存在、純金こけし張りぼて人形を着て祭りに参加。
若者&子供にイジられて、何度も修理されたが最終的に今のような状況になる(笑)

そして、ある時社長が、オーナー活動の気運を高めるために唄を作った。
「純金こけしの詩」というオーナー募集のキャンペーンソング。
その後、会社の車を改造するように指示を出し、何をやるのかと思ったらパチンコ屋の宣伝カー?選挙カーみたいなのを作らせ、純金こけしの唄をバックに背景に録音した、「みんなの力で守りたい、純金こけしオーナーズクラブ実行委員会です。一口1万円皆さまの応援を待っております・・・〇×△◆」とオーナー募集の呼びかけを大きなスピーカから爆音で流す宣伝カーを作り、こういう役回りは、いつもと同じように・・・。
「タクロー!コレで市内ぐるっと回ってこい!(笑)」とその車で市内を自分含めた若いスタッフに回らせた。
他にも黒石市役所の前で開催することになったオーナーズクラブ主催の屋外音楽ライブイベント。
純金こけしの詩をイベントのトリで社長が歌う事になり、何となくギターを演奏しろと言われそうな雰囲気もあったけれども、その時は黒石市の哀愁ただよう風景画像をつなぎ合わせて映像動画を作り、ライブステージの後ろのスクリーンに映すという仕事を任された。

3か月の活動を終えた時のご褒美代わりの反省会。
改めてわかった。
これは、純金こけしというモノを守る活動だったわけではなく、地方の財政破綻、過疎化、市町村合併、人口流出、地域格差問題などの問題が取り上げられるようになっていた時代。
そんな時代に田舎の小さな街でもみんなでやれば大きな事が出来る。その精神を伝える活動。
小さな街とそこに住む人達の意地と健在さを全国に発する活動だったんだ。と
「将来この純金こけしをどうするか。ワゲモノのために残してあげたかった。」
日本一をやり遂げた事がある社長の言葉。ずっと、心に残って離れない言葉になった。

入館者数は3分の1。売り上げは2分の1に。
その1年間何もしなかった訳ではない。何とか違う流れを作ろうと思っていたのか、その1年間に人事異動で、津軽こけし館担当は2回~3回と変わった。
自分に声がかかった時、営業の抱えている仕事もあったので配属されるとしたらオフシーズンの11月頃との事。
11月から3月までの冬場のオフシーズンは準備期間だとして、次年度の4月から3月まで、1年間任せてみる。ワゲモノの考えで思いっきりやってみろ。それでもダメなら本当に変える事を考えなきゃいけないとの事。
当時、社長の性格を知っていたけど、落ち込む津軽こけし館にテコ入れするため、「津軽こけし館」ではなく、違う何かにすることも本気で考えていたと思う。例を言うと名前を津軽こけし館じゃなくしたり、他のジャンルの職人も製作実演によんだりして、「津軽職人館」みたいな複合施設にするとか。
おそらくそんな感じ。それ位歯止めが利かない位の落ち込み方だったと思う。
そして「純金こけしの力に頼りすぎていた」以外にもう一つ言っていた。
「20年間近く、変わってなくて、(自分たちの会社で管理運営することになっても)それを変えられてない」と。
どういう意味か何となくわかった。2年半前、自分たちの会社が管理運営するようになる以前は、伝承工芸館含め、管理運営していたのは市の関係機関の第三セクターなど。
民間企業に管理運営を委託することになった理由は柔軟な発想やコスト削減の効果などを期待してのはず。
営業の仕事、未練はあったけど、崖っぷち、そして色々な問題がありそうな津軽こけし館。
自分にどこまで何が出来るのか試してみたい。

ブログ等何もやっていない時代の津軽こけし館。
ある意味ベールに包まれている時期でもあり、新聞で書いた以上に発したい事が山ほどあり、あとがきですがまだ続き、こっちが本編以上にかなり長くなります…(笑)
配属されたのは21回目の工人フェスが終わった後の11月。
オフシーズンからのスタートだった事もあったと思うが、お客さんが・・・全然来ない。。。
そしてポツラポツラ来るお客さん。
「2階(有料展示室)の見学お願いします」と入場料を払う方々、見学した後「金のこけしは?」と聞かれる事がほとんど。
1年後でも純金こけしの面影が助けてくれていたが、心苦しく歯がゆかったけど、これまで入場料を払って2階の展示室を見に来ていた人の大多数の方は、こけしを見るために入場料を払っていたのではなく、1億円の金塊を見るためにお金を払っていたんだ・・・と自分は思ってしまった。
そして、たまに来るマニアックな方々。
工人さんから「あの人はこけしマニアだ」と聞いて、何かこけし買うのかな…♪と思っていると買わない。
そうか、マニアックな方は見るだけじゃなくて、自分で欲しいんだ。
じゃあ、こけし館の売店に置いてあるこけしは?と聞くと、「そんなの持ってるよ(笑)」
なんかマニアックな方の中では、よく見る作品であんまり魅力が無いみたい。。。
…そうか、じゃあ津軽じゃない系統のこけしも置いたら良いんじゃないか?

他にも現場で働いていると、待ったがかかる「・・・ん?」と思う事が多数あり、1つの問題を追及していくと、その前にある更なる問題、さらにそれを何とかしようとすると、もっと大きな問題。
絡まり合った糸みたいな感じだが紐を解こうと思うと、さらなる固まりが沢山あった。
例をあげると「師匠たちの世代が決めた事」「津軽こけし館は20年近くこういうやり方だった」「全国的なこけし業界の流れ」「それをやられると自分たち(津軽系工人)は困る」そんな新参者には口を出しづらく手を出しにくい問題などなど。
紐を解くのが難しく、さらに言うと無理やり紐解くのは、歴史やこれまでの背景、先人達に泥を塗るような、ちょっと揉め事レベルになりそうな危険な雰囲気。
20年間のズルズル。管理や運営する会社や団体が変わっても根強く続いていた部分。
なるほど。。。20年近くの歴史の重み。
なぜ何人もの担当者が「変える」事が出来なかったのかわかってきた。
―そんな津軽こけし館。その時代、よく津軽こけし館に来ていた工人さんは、当時、工人会長だった小島俊幸工人、
そして、阿保六知秀工人と金ちゃんこと阿保金光工人。
そして、週末限定で上記の3人に加え、長谷川健三工人や盛美津雄工人。
1年に数回イベントの時や夏休みなどに、本間直子工人や今晃工人や笹森淳一工人など。
金ちゃんは、まじめな話をするような性格じゃなかったのと、会話のキャッチボールが出来るようになるまで時間がかかり…(笑)
会うことや実演に呼ぶ回数も多かった事もあり、津軽こけし館の事やこけしの事は小島さんや阿保さんに良く教えてもらったり、話を聞いたりした。

そんな話の中でこけし業界、こけし館のやり方や今後のイベントや企画の部分。
そういった部分は引っかかることや話が詰まる部分が多かったが、全体的な話では無い、本人と一対一の会話の部分、個人の歩み?&自分なりの信条ややり方を聞くと、それぞれとても面白かった。
そして、製作している実演を見たりしていると、あんまり見たことない珍しい作品等も作っていて、「これなんて言うんですか?」「見た事ない珍しいタイプですね♪」 「この作品面白いですね~♪」と話をすると製作エピソードだったり、作り方やこだわり、~型という伝統の型だよ。と教えてもらったりする。
たまに来る健三さん何かは、こけしの話をすると「こけしなんて全然売れねぇぞ~(笑)」と良く言っており、じゃあ何だったら売れるんですか?(笑)と聞くと、「こけしは売れねぇけど、独楽なら少し売れる。」と良く言っておりこの方はこけし工人なのかな…(笑)とこけし工人らしからぬ発言を良くしていた。
休みの日に健三さんの拠点だった津軽藩ねぶた村に行って、健三さん達の作る独楽の売り方を見ると「なるほど!これなら手に取りやすい♪」と独楽で遊ばせるコーナーを津軽こけし館にもマネして作ったりしてみた。

新参者でもあり、工人ではない違った立場。
今、改めて思うが、自分は、こけしの見た目からこけしが好きになった訳ではない。
こけし工人さんが魅力的で楽しく、生き様がカッコよく面白い。
その人達が作ったものだったから興味を持ち始め、こけし好きになっていった類の人だ。
―配属されてから5か月後、自分も興味があったが、小島工人が何とか他の産地の催事や展示、関係者へのあいさつ回りもかねて、こけし館担当になった自分に見せたいと会社に後押ししてくれた事もあり、初のこけしイベントである土湯こけし祭り&行く途中に他県のこけし施設の視察に小島工人と一緒に行った。
何にもわからないこけし初心者ではあったが元営業だったこともあり、紹介された人、会った人、色んな人に名刺を配りまくった。懇親会ではいる人ほぼ全員にお酒を注ぎに行った。
ただ、祭り会場や懇親会。今と違い、20代~40代っぽい人はほとんどいない。
そして、若いから?新参者だから?全員ではないが、常連さん的な人たちは結構キツめな事を言ってくる方が多い。
今から10数年前、こけし業界は非常に閉鎖的な雰囲気がして、来たばかりでわからないことだらけで色々教えて下さい(笑)と言うと、へ~、そんなんで担当なんか出来るんだ(笑)と、ちょっと小馬鹿にされつつ、新参者には風当たりが強めでとても居心地が良くない環境だったと思う。
帰りの車内。小島さんが「イロイロと難しい人とかばっかりだろ?(笑)」と感想を聞いてきた。
確かに…(笑)コレは難しい。。。。吉紀さんや真由美さんみたいな人に会ってなかったら、結構ダメージだけ背負って心が折れそうになっていたかも…(笑)
そして「祭りや他のこけし館(こけし祭りの前後に立ち寄ったこけし関連施設)とかも勉強になったべ?」と言っていた。
―確かに、勉強になった。

―そして、こけしやこけし業界に関する部分じゃなくても問題点はまだまだあった。
稼げていないから、スタッフの人数や人件費はあまりかけられない。当初自分1人での戦いだった。
たぶん何もしようと思ってなかったら、1人と言えど、朝に普通に来て定時になると仕事を終えて帰ることが出来たと思うが、「変えなきゃ」の根底の元、色々仕事を増やしてみたり手を出してみたら、お客さんも来る営業時間の日中ではお客さんへの会計作業や接客、電話応対、掃除や業者への対応のみで現場は回せても、新しくやろうと思っている部分に全く手が付けられない状況。
よって何か新しい事に手を出すときは閉店後から。
そんな“何かやらなきゃいけない”と思って藻掻いている自分に気づいてか、社長から少しの助け舟。
観光シーズンが始まる時に応援スタッフを派遣してくれることに。
ただし週に4日のみ。10時~15時までの間に4時間だけ働く養護学校を卒業した当時確か19歳の男の子、ミキナリ君
明るく元気よく、絵が上手くねぶた絵を書くこと&カップラーメンのカレー味が好き、イケメン。
だけど、レジ会計や計算、電話応対、道案内や聞かれた質問への対応、パソコンなどでの事務作業などは出来ず、主には掃除とレジ会計した時の袋詰めの作業などの補助的な部分のみ。
出来ない事はあったものの、素直で元気で明るい弟的な存在で、その子も出来ない部分は自分に頼むしかないので2人しかいなかったこともありすぐに打ち解けた。
仕事というか、ある意味2人で行う津軽こけし館劇場での演劇の仕方。
ヤマダ流、兵法三十六計、樹上開花を行うためのやり方を仕込んだと言った方が良いかも。
人が来場してきたら「いらっしゃいませ!」「ありがとうございました」と元気よく言う!
袋詰め、掃除や掃除方法、補充する在庫の置き場や備品のある場所を覚えてもらい、そして変わり種の独楽の回し方と独楽を回す時にお客さんに言う健三さん直伝の独楽回しトークの山田アレンジ版。
この部分のみを徹底的に仕込んだ。
そして、ミキナリ君の日中の主な仕事が、レジ周辺の掃除や商品の整理整頓や補充。
人が来だしたら、レジに来そうな流れをチラチラ伺いつつ、店内の掃除や整理整頓しながら…、独楽コーナー付近にお客さんが寄って来たら、レジ周辺も見える位置で陣取り、独楽コーナー付近のお客さんの前で独楽を回して教えてあげる。
すると自分が「は~い♪」とスッと自分がレジに入り、ミキナリ君も袋詰めの配置についてお会計。
そして複数の商品を梱包しなければいけない時は、会計しながらミキナリ君の方に簡単なものを振り分けて自分の方に難しいモノを分けて置いて同時進行で梱包。
実は締めの部分のレジ会計などの部分を決めきれるのは自分しかいない。形がいびつなモノ等を包装出来るのは自分だけ。難しい質問に答えられるのは自分しかいない。
だけど雰囲気的には2人のスタッフで独楽を回して見せてあげたり、会計も待たせず切盛りして、お客さんにそれなりに対応している感じの津軽こけし館。そんな、なんちゃってヤマダ&ミキナリ劇場を作った。

ただ、ミキナリ君が来る日でもいる時間は1日の約半分。
さらにいうと週に4日のみなので、週の半分位は1人な訳で、その頃、嶽の山に住んでいて、数か月に一度だけ津軽こけし館に実演で来ていた今晃工人。
あまり見慣れない自分の仕事ぶりにたまに来ると心配して、「俺、レジとか出来ないけどレジの前に立って挨拶位なら出来るから俺がレジに立っている間ヤマダさん昼飯食いなよ(笑)」と言ってくれた。慣れてるから大丈夫です(笑)と断ったが、実は甘えようかな…と思った事もあり、その当時津軽こけし館に来るとまさかの今晃工人が「いらっしゃいませ~」とレジに立っていたかもしれない(笑)
そして、ラーメン、うどん、そば。。。スープ入りの麺類が好きな自分。
“お客さんが途切れた!今しかない!昼ご飯だ!!!!”
とカップラーメンにお湯を入れて一気に食うぞと思って準備していると、お客さんがタイミング悪く来館して湯を入れた3分後ピッタリに「おねがいしま~す♪」とミキナリ君からのお声がけ。
カップラーメンやきそば変化味を何度かしょうがないと思って食べたが、僕はこの時期職場での昼ご飯にスープ入りの麺類を食べるのを封印した。
ー大変だったけど、良かったことが、常に1人崖っぷち状態で火事場のクソ力を出しやすい状況。
聞かれてわからない事は自分で調べるしかない。
コレやってみよう!と思ったら基本的に一人で準備。

―純金こけしのコーティング効果が無くなり、自力の力がむき出し状態になってきていた津軽こけし。
市や第3セクターでの運営の間にしみこんでいた伝統やルールが染みついていた津軽こけし館。
勉強不足で経験不足。そんな新参者には厳しい風当たりのこけし業界。
伝統と創作、師弟関係、収集家や愛好会、工人会や工人組合、故人の作品や現役工人の作品。
そして、工人とは同業者でもあると同時にライバル同士でもあり、意見や考え方は千差万別。
複雑に絡まり合って20年。
風当たりが強そうだけど津軽こけし館の中身を変える。
埃を立てず流れのままで、いずれは津軽こけし館じゃない違った施設に替える。
どっちが良いかと思ったら自分は前者を選んだ。
問題の根底を調べて、出来る限り紐を解く。それでもダメなら「変えてみる」
そして、マニアックな人で10,000円を使ってくれる1人の人を呼び込むより。
100円使ってくれる人、100人呼ぶ。
ワゲモノの意地、見せたる。
考えて、動かすのは自分しかいない。応援してくれる若いこけしファンの方が増えるのはもうちょっと先の話。
今から13年前の津軽こけし館。